クロード・モネ,
《睡蓮》,
油彩・キャンヴァス,
1897年-1898年,
個人蔵
フレデリック・カール・フリージキー,
《百合の咲く庭》,
1911年以前,
油彩・キャンヴァス,
テラ・アメリカ美術基金蔵,
Photography © Terra Foundation for American Art, Chicago
ブランシュ・オシュデ=モネ,
《ジヴェルニーの庭、バラの小道》,
1926年以降,
油彩・キャンヴァス,
クレマンソー美術館蔵,
Photography © collection Musée Clemenceau, Paris
モネとジヴェルニーの画家たち
2010年12月7日~2011年2月17日
Bunkamuraザ・ミュージアム
藁と蓮
2011年1月15日
一昔前、パリのオランジェリー美術館でクロード・モネの巨大な《睡蓮》を鑑賞した時は、特に深い感慨を覚えた記憶はない。
しかし今回は、ある一つの作品が私の心を強く捉えた。それがモネの《積みわら(日没)》である。この絵の、やわらかく、温かみのある色使いが、眺めていて心地良く、ずっと見惚れてしまっている自分に気がつく。
蓮と藁。主題の違いはあるものの、同じモネの作品である。蓮には心惹かれず、なぜ藁には心を奪われてしまったのか。
藁と言えば、例えば本展覧会で展示されているジョン・レスリー・ブレックの《朝霧と日の光》などは、日の光を浴びて空中に舞うホコリまで見えてくるような、描かれたその場の情景を見事に再現しており、その場所を実際に訪れてみたら、この絵と同じような風景が現実に目の前に横たわっているのだろうかと、見る者をそんな気分にさせてくれる。
だが、モネの《積みわら(日没)》の場合、この絵が描かれた現実の場所よりもむしろ、モネが描き上げた絵の世界そのものに足を踏み入れてみたい、そしてその場所でのんびり時を過ごし、世俗を忘れてその世界に漂っていたい、そんな気にさせてくれるのだ。
単に、現実世界をそっくりそのまま写真のように切り取るのではなく、そこにモネ独特の風景の見かた、感じかた、思いなどが加わることにより、現実世界とモネの精神世界が結びつき、そこに全く新しい世界が出来上がる。藁は藁でも、これはただの藁ではないのだ。
だが、蓮ではなく、なぜ藁なのかという疑問は残る。どうやら、この問いは思っていたほど単純ではなさそうだ。ここはひとつ、じっくり考えてみることにしよう。
この展覧会の詳細は下記まで。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/10_monet/index.html
読者プレゼントのお知らせ。本展覧会を御観覧ご希望の方は、住所、氏名、年齢をご記載の上、下記アドレス宛てに1月31日までにご連絡ください。抽選で5組10名様の方に本展覧会の入場チケットをプレゼントさせて頂きます。
tokyoartworld@gmail.com